雰囲気(アトモスフィア)
物語の舞台が放つ、読者を包み込む環境と感覚の質。物理的な細部、世界観づくり、場所のもつ感情の手ざわりを積み重ねることで生まれます。
最終更新雰囲気(アトモスフィア)とは、舞台が放つ感覚と環境の質のことで、目に見える細部や音、匂い、光、天気、そして積み重なった歴史の重みを通して感じとられる、その場所ならではの空気です。近い概念にムードがありますが、ムードが言葉選びや文のリズムといった文章の技によって読者のなかに生まれる感情の反応を指すのに対し、雰囲気は物語の世界そのものの質を指します。ヴィクトリア朝の客間の息の詰まるような閉塞感、嵐で暗くなった大草原に張りつめる予感、打ち捨てられた宇宙ステーションの不気味な静けさ。雰囲気は物語のどこでに宿るものです。ひとつながりの感覚の体験を生み出すよう、環境の細部を選び、組み合わせることでつくられ、せりふが一言も発せられないうちから、人物の行動や物語の可能性、読者の期待をかたちづくっていきます。
文学や映画の名作のなかには、何よりもその雰囲気によって記憶されているものがあります。エドガー・アラン・ポーは、重苦しく息の詰まる雰囲気の名手でした。『アッシャー家の崩壊』では、朽ちかけた屋敷、荒れ果てた土地、暗い沼、壁を走る亀裂の描写の一つひとつが、一族の崩壊を映し出す、環境そのものの不気味さを生み出しています。ダフネ・デュ・モーリアの『レベッカ』は、マンダレーの屋敷そのもの、そのシャクナゲ、海に面した窓、そしてどの部屋にも残る先妻のド・ウィンター夫人の気配によって、雰囲気を築き上げています。映画では、ドゥニ・ヴィルヌーヴの『ブレードランナー2049』が、果てしなく空っぽな風景、くすんだ色合い、荒涼とした建築を長々と映すショットによって雰囲気をつくり、孤独を体で感じられるものにしています。マリアナ・エンリケスの短編は、崩れかけた集合住宅、停電、ありふれたものと怪物めいたものが同じひび割れた歩道を分け合う通りといった、アルゼンチンの都市の荒廃ならではの手ざわりから、雰囲気を生み出しています。
効果的な雰囲気をつくるには、五感をすべて使い、一つの効果に向かって働く環境の細部を重ねていきましょう。役に立つのが「感覚の棚卸し」という技法です。主な舞台ごとに、人物がその場所で目にするもの、耳にするもの、嗅ぐもの、肌で感じるもの(温度、手ざわり、空気の具合)、味わうものを書き出し、そのなかから、狙った雰囲気を最も強く呼び起こす三つか四つの細部を選ぶのです。物理的な現実と感情の響きの両方を伝える、一石二鳥の細部を選びましょう。ちらつく蛍光灯は、その場所のみすぼらしさを伝えると同時に、目に見える不安も生み出します。物語が進むにつれて舞台がどう変わるかも考えてください。天気がどう移ろうか、夜になると部屋がどう違って見えるか、つらい出来事のあとで見慣れた場所がどう変わって見えるか。雰囲気の変化は、内心の独白を一言も使わずに、人物の変化を映し出せるからです。雰囲気は言い切るのではなく、積み重ねてつくりましょう。読者がその環境に浸りきったと感じるまで、段落をまたいで感覚の細部を少しずつ積み上げていくのです。最も力のある雰囲気は、読者に、自分もその虚構の空間に足を踏み入れて、空気がどんな匂いをしているのかまでありありとわかる、と感じさせます。