PlotiarとNotion:小説を書くなら、どちらをどう使い分けるか
私は3か月かけて「完璧なNotion小説テンプレート」を作った。いまもワークスペースのどこかに残っている。大文字で「THE NOVEL OS」と名づけたウィキページの奥だ。大声で叫ぶような名前にすれば、いかにも公式な感じがすると思ったのだ。登場人物のデータベースには、1人につき14のプロパティがある。すべてのシーンを、そこに登場するすべての人物と結ぶリレーションがあり、「マーカスが出てくるシーンはどれか」で絞り込めば即座に答えが出る。章ごとの語数を自動で集計し、リアルタイムで更新するロールアップもある。どう見ても、見事な情報設計だ。
その中で、私は一冊も本を書き上げなかった。
「そのために作った本を書き上げなかった」のではない。問題は自分の意志の弱さではないと認めるまで、熱心なNotionユーザーとして過ごした1年半のあいだ、一冊も書き上げなかったのだ。私は世界一洗練されたファイルキャビネットを作り、それを机だと思い込んでいた。
これはNotionを叩く記事ではない。Notionはこの10年で生まれたソフトウェアのなかでも指折りの出来であり、何よりも先にそれをはっきり言っておきたい。「Notionの代わり」をうたう記事の多くは、このツールが悪いかのように書くが、そんなことはない。あの魅力は本物で、評価に見合っている。それでも、Notionが小説を整理するのは抜群にうまいのに、小説を書くのを手伝うのは苦手だという、はっきりした構造上の理由がある。その理由の形が見えれば、あの1年半のことで自分を責めるのをやめ、実際に原稿を書き上げられる環境を作り始められる。
書き手が、いつかは必ずNotionを開く理由
ばらばらのファイルの山で小説を計画しようとしたことがあるなら、Notionの売り文句には本当にあらがえない。Notionでは、データベース同士が互いにつながる。ひとりの人物を、その人物が関わるすべてのシーン、すべての場所、すべての筋とリンクでき、そのリンクは双方向に自動で更新される。章を管理するかんばんボード、執筆の連続記録をつけるカレンダー、世界観の画像を並べるギャラリー、名前のある登場人物を「初登場」順に並べた表。それをすべてひとつのワークスペースの中に作れる。しかもどれも自由度が高く、誰かのテンプレートを押しつけられるのではなく、構造そのものを自分で考え出せる。
ティアゴ・フォーテのPARAメソッド、つまり著書『SECOND BRAIN』で説明されている、プロジェクト、エリア、リソース、アーカイブという整理法は、顧客ファイルや会議メモを整理する知識労働者のためのもので、小説家のためのものではない。それなのに、不気味なほどぴったり小説に当てはまる。原稿はプロジェクトになる。登場人物、世界観、資料はリソースになる。古い原稿はアーカイブになる。「Notion 小説 テンプレート」で検索すれば、まさにこの考え方で作られた「小説OS」のテンプレートが何十も見つかる。ほとんどが無料で、ほとんどが美しい。そして賭けてもいいが、ほとんどは、そのテンプレートで書くはずだった小説を実際には書き上げていない人が作ったものだ。悪口として言っているのではない。私自身がそのひとりだったからだ。そしてテンプレートを作ることそのものが、魅力がひそかに罠に変わる場所だからだ。
罠とはこういうことだ。データベースを作ることは、書くことのように感じられる。形が同じなのだ。アプリを開く。決断を下す。作業を終えるころには、眺めて誇らしく思えるものができている。だが14のプロパティを持つ人物データベースは、シーンではない。シーンのための足場だ。そして足場は、本物の文章の一章とは違って、いくらでも、心地よく広げていける。足すべきプロパティは、いつでももうひとつある。「データベースは完成した、さあ書きに行け」と告げてくれる自然な区切りは、どこにもない。文章にはその区切りがある。章は終わる。データベースは、自分で止めないかぎり終わらない。
Notionが本当に優れているところ
Notionがどこで評判どおりの力を発揮するのかを、具体的に書いておきたい。この比較が公正であるかどうかは、そこにかかっているからだ。
資料のデータベースとしては、執筆専用のツールにNotionと本気で張り合えるものはほとんどない。歴史小説を書いていて、17世紀のアムステルダムの航路について、出典の抜き書き、引用、半分だけ確かめた事実が300件たまっているなら、Notionのタグ、絞り込み、相互参照は、小説家向けに作られたほとんどのツールよりうまくその混沌を整理してくれる。6冊にわたって40人の常連が登場するシリーズの人物データベースとしても、リレーショナルな構造は本当に役に立つ。「この人物が出てくる巻はどれか」と問えば、6冊分の原稿をスクロールしなくても、ちゃんとした答えが返ってくる。すべての場所がすべての勢力とつながり、勢力がそこに属するすべての人物とつながる世界観のウィキとしても、Notionは本物の百科事典に近いことを、コードを1行も書かずにやってのける。
これには、フィクションとはまったく関係のない側面もある。この魅力の根っこにある原理なので、触れておく価値がある。ドイツの社会学者ニクラス・ルーマンは、ツェッテルカステンと呼ぶ紙のカードによる仕組みを作った。およそ9万枚のカードに、1枚につきひとつの考えを書き、手書きの番号で関連するカードを互いに参照させる。彼はそれを使って、生涯に70冊を超える本と何百本もの論文を書いた。Notionは、ある意味でまさにツェッテルカステンのデジタルの子孫だ。細かく分けたメモを密にリンクさせ、構造を上から押しつけるのではなく、つながりから浮かび上がらせるように作られている。本当に強力な考え方の道具だ。互いにつながった知識の体系を築くには、すばらしい方法だ。ただそれだけでは、愛し合う2人が台所で互いに言ってはいけないことを言ってしまう場面を、900語続けて書く方法にはならない。
第8章あたりで、化けの皮がはがれる
ここで、Notionはデータベースであることをやめ、ワープロのふりを始める。そして、縫い目が見えてくる。
Notionをメモにはこれほど柔軟な道具にしているブロック型のエディターは、6万語の文章を続けて書くには本当に居心地の悪い場所にしてしまう構造でもある。すべての段落、すべての行が、それぞれ独自のメタデータと描画の仕組みを持ち、アプリが管理し続けなければならないツリーの中に位置を持つ、独立したブロックなのだ。会議メモやプロジェクトの概要くらいの規模なら問題はない。章の規模になると本物のパフォーマンスの問題になり、原稿の規模ではさらに悪化する。Notionの長いページは、描画エンジンにとってはひとつのドキュメントではなく、個別に管理される何千ものオブジェクトであり、1文字打つたびにそのすべてを計算し直さなければならないからだ。Notionの1ページで一章まるごと書こうとしたことがある人なら、2000語を超えたあたりで現れる、あの独特の重たく沈むような遅れを知っているはずだ。キーを押してから文字が画面に出るまでの半秒の遅れ。たいしたことはないように聞こえるが、頭の中で文のリズムを保とうとしているときに、文が指の速さについてこられなくなると話は別だ。
構造化されたメモにはありがたい書式の機能、つまりトグルリスト、コールアウト、埋め込みデータベース、色つきの文字は、散文にとっては積極的に足を引っぱる。ページがないのだ。原稿のどのあたりにいるのかという感覚も、ページ送りも、「これはひとつの章で、形がある」と目に伝える視覚的なリズムもない。1段落しか書いていなくても1万1000語書いていても見た目の変わらない、果てしなくスクロールする1本の列に打ち込んでいるだけだ。その見た目の変わらなさは、目立たないが確かな損失だ。アン・ラモットの言う「1インチの額縁」、つまり目の前の作業の単位が手に持てると感じられるとき、人はいい文章を書けるという考えは、その単位が全体とは違って見えることが前提になっている。Notionはどれだけ書いても同じ、区別のつかないスクロールしか見せてくれない。だから「このページだけ書けばいい」という規律には、目で見てつかまれる手がかりが何もない。
そして、オフラインでも大丈夫という安心感がない。Notionは絶えずクラウドと同期していて、たいていはうまくいく。だがエディターの反応の速さは、執筆専用のツールとは違って、その同期の仕組みに縛られている。文の途中でページが固まり、隅で同期のアイコンがくるくる回るのを見たことのある書き手は、それを忘れない。どれも、Notionという会社への批判ではない。どこまでも組み替えられるように作られたメモの道具に、書いている文の下に姿を消すように作られた原稿エディターの役目まで求めたら何が起きるか、という話にすぎない。この2つは別の仕事だ。Notionは自分がどちらのために作られたかについて正直だ。小説の計画をめぐる正直な物語では、私たちの多くがそうではないふりをしていたことを認めなければならない。
執筆専用のエディターで、実際に何が手に入るのか
Plotiarは、まさにこの隙間のために存在している。ただ「こちらのほうがいい」と言い張るのではなく、何が違うのかを説明したい。「いい」という言葉は、その下に具体的な中身がなければ役に立たないからだ。
キャンバスエディターは、本物のページを描く。ページ送りのある実際のA4のページで、印刷した原稿と同じ見た目だ。だからドキュメントには、どこまでも区別のつかないスクロールではなく、書くにつれて変わっていく形がある。違いを体感するまでは、見た目だけの話に聞こえるだろう。埋まっていき、めくれるページは、ラモットの額縁の意味で頭の中に持っておける単位だが、果てしない列はそうではない。コメントは、人間の編集者の書き込みと同じように、対象の行のすぐ横の余白に置かれる。どの段落についてのメモなのかを手作業で突き合わせなければならない、別のデータベースの記録ではない。そしてこのエディターは、メモ用のブロック構造を流用したものではなく、長い散文のために作られている。だから9万語の原稿でも、2000語の原稿と同じように軽快に反応する。土台になっているドキュメントの仕組みが、あとから大きさに耐えられるよう調整されたのではなく、最初からその規模を想定して設計されているからだ。
構成を計画するための道具も、原稿と同じプロジェクトの中にある。これは、どれだけデータベースを作ってもNotionには用意できない部分だ。Notionには、プロットの因果の連鎖をたどる専用のフローチャートも、4本のサブプロットが章ごとにどう交わるかを見るプロットグリッドも、家系図を描く機能も、マップもないからだ。表とリンクしたデータベースで、こうしたものの一部を大まかにまねることはできる。私も一度、自分自身を参照するリレーションを使って、人物の関係図をそれなりのものに仕上げたことがある。4時間かかり、仮装した表計算にしか見えなかった。専用の視覚的な道具なら、同じ仕事が数分で終わり、見た目もちゃんとそのものらしくなる。現役の小説家が実際にプロジェクトをどう整理しているかで紹介した、原稿、ワークショップ、切れ端の3つのフォルダーによる構成は、よくできたNotionのワークスペースが目指しているものの近い親戚だ。違うのは、Plotiarではその構成のうち原稿の側が、本物の執筆の場だということだ。執筆の場のふりをしたデータベースの記録ではない。
併用が本当に意味を持つとき
正直な答えが「Notionをきっぱりやめろ」だとは思わないし、そう言えば嘘になる。原稿そのものを別の場所に移したあとも、Notionが役に立ち続ける書き手が確かにいるからだ。
資料が中心になるプロジェクトを抱えているなら、Notionは今後もその資料にとって本当に頼れる置き場であり続ける。何百もの一次資料の抜き書きを抱えた歴史小説、6冊にわたる系図を含むシリーズの設定資料、ルーマンにとってツェッテルカステンを役立つものにしたのと同じくらい密に相互参照された世界観のウィキ。私が1年半試したやり方ではなく、本当にうまくいくやり方は、分業だ。原稿は、文章の下に姿を消すように作られた執筆専用のツールに置く。原稿が矛盾しないために必要な情報をすべて収めたデータベースは、データベースをきちんと抱えられるように作られた場所に置く。調べものと参照はある場所で。執筆は別の場所で。2つが同じアプリである必要はない。同じであるべきだと思い込むことこそ、この話全体でいちばんよくある、そしていちばん高くつく間違いだと思う。
| 作業 | 置き場所 | 理由 |
|---|---|---|
| 原稿の執筆 | 執筆専用のキャンバスエディター | 長い散文、ページ送り、9万語でも軽快な反応のために作られている |
| 資料の抜き書きと出典 | 柔軟なデータベースツール | 何百もの断片的な情報のタグづけ、絞り込み、相互参照 |
| 人物とプロットの計画 | 専用の視覚的な道具 | フローチャート、プロットグリッド、家系図は、表では見えない構造を見せてくれる |
| シリーズ全体の整合性 | 関係のあるデータをいちばんうまく扱えるほう | シリーズしだい。原稿が別の場所にあれば、どちらのツールでも対応できる |
土台づくりを前進と取り違える代償について考えるとき、私はいつもパトリック・ロスファスのことを思い出す。『風の名前』が出たのは2007年だ。その続編のさらに続編にあたる『The Doors of Stone』(未訳)は、この記事を書いている時点でまだ出ていない。ロスファスは長年、本が完成しないのを見守るファンからの重圧について、公の場で語ってきた。ほかの作家の書き方の内側で何が起きているかを知っているとは言わないし、他人の本を外から診断するようなまねは慎みたい。それでも、彼がインタビューで語ってきた罠の大まかな形、つまり完璧主義と、次の1語を信じられるようになる前にあらゆることのつじつまを合わせなければならないという、膨らんでいく感覚は、私以外の誰も読まないデータベースに、人物1人につき14のプロパティを積み上げていたときに感じたものと同じ形をしていた。土台づくりには、自然な天井がない。章にはある。その非対称こそが、危うさのすべてだ。
まったく逆の方向に進んだ書き手にも目を向けておきたい。ジョージ・R・R・マーティンは、よく引用される2014年のコナン・オブライエンの番組出演も含め、何度もインタビューで語っている。いまも『氷と炎の歌』を、WordStar 4.0の入ったDOSマシンで書いているのだと。自動修正も入力候補もなく、打った文字を画面に出す以外に何もできないからこそ、なのだという。すべての書き手が1985年に戻るべきだと言いたいのではない。「道具にできることの多さ」と「実際に書かれる量」には正の相関はなく、ある点を超えると逆転する、と言いたいのだ。1人につき14のプロパティを持つワークスペースも、プロパティがひとつもないワークスペースも、それぞれのやり方で同じ問題を解こうとしている。ひとつの文が生まれるまでのあいだ、書き手の邪魔をしないことだ。Notionは、何でも差し出して、必要なものだけを使うよう書き手を信頼することで、その問題を解く。私も含めて、私たちの多くには、その信頼を成果に変えられるほどの規律がない。
どちらか一方に絞るべきとき
プロジェクトの初期段階で、資料や相互参照の量がひとりの書き手の頭に収まる範囲を本当に超えているなら、その部分のためにNotionか、それに似たツールを使い続ければいい。本格的な規模のシリーズの設定資料や、資料館級の出典を抱える歴史小説などだ。そして、原稿までそこに住まわせないよう、規律を保つこと。ふつうの複雑さの長編が1本だけなのに、ページを書くよりデータベースを磨いている時間のほうが多いと気づいたら、それがやめる合図だ。1年半を悔やむためではない。私も自分の1年半とは、それなりに折り合いをつけた。ただやめて、実際の執筆を、文が始まったとたんに邪魔をしないよう作られた道具に移すためだ。
THE NOVEL OSを手放して数か月たったいま、私が使っている判定法は単純だ。作業を終えたとき、文章を書いたか。それとも、理屈のうえではいつか文章が入るかもしれない場所を作っただけか。後者が3回続いたら、まだ道具のせいではない。力の向け方がずれているのだ。けれど、道具そのものが後者を前者より楽にしているなら、つまりブロックエディターが、データベースを作れば目に見える進み具合で報い、章を書けば遅れで罰してくるなら、いずれ道具そのものが問題になる。私の場合がそうだった。気づくまでに1年半かかった。
いまでもときどきNotionを開く。いま書いている作品のための資料データベースがひとつあって、THE NOVEL OSとは違い、こちらは本当に誇りに思っている。入れるべきものだけが入っていて、それ以外は何もないからだ。出典、整合性を保たなければならない実際の歴史上の出来事の年表、第30章でうっかり同じ名前を使わないための、使用済みの名前の一覧。原稿そのものは、いまは別の場所にある。Scrivenerとも正直に比べてみたツールで、果てしないスクロールではなくページがめくれるキャンバスの上だ。THE NOVEL OSはいまも、未完成のまま、14のプロパティの深さでそこにある。本を書かないための、とても具体的で、とてもありふれたやり方の記念碑として。削除はしない。ただ、もう開かないだけだ。自分で作ったからこそ、そしてやがてその中に住まないことを学んだからこそ、残しておく価値のある構造もある。
PlotiarはNotionとうまく共存できます。資料のデータベースは、すでにうまく機能している場所にそのまま置いておきましょう。原稿は、文章の下に姿を消すように作られたキャンバスで書きましょう。無料でプロジェクトを始めて、2つの仕事がようやく別々の部屋に住むようになると何が変わるのか、確かめてみてください。