執筆のヒント

アーキタイプは衣装ではない:他人の物語をキャラクターに着せるのはもうやめよう

Plotiar編集部約16分で読めます

四か月かけてメンター役のキャラクターを書いたことがある。最終的に気づいたのは、彼が帽子を替えただけのガンダルフだということだった。

彼には風雪に刻まれた顔があった。まさにちょうどいい瞬間に告げられる謎めいた助言があった。古の力をほのめかす、謎に包まれた過去があった。主人公が道に迷ったときに現れ、彼女が必要とする知恵をきっちり授け、彼女が次の試練にひとりで立ち向かえるように、都合よく姿を消した。彼は死にさえした。第二幕の終わりに、自らを犠牲にして、気高く。私は涙を浮かべながらその場面を書き、余りものの部品だけで組み立てたキャラクターの死に、本気で心を動かされていた。

友人のサラが原稿を読み、考えうるかぎり最も優しい形で、壊滅的な感想をくれた。「彼のこと、好きだよ」と彼女は言い、正直さと友情のどちらを選ぶか迷っている人特有の間をおいた。「でも、前にも会ったことがある気がする。四十冊くらいの別の本で」

彼女は正しかった。彼はキャラクターではなかった。衣装だった。具体的には「賢きメンター」の衣装で、それをマネキンに掛け、しかるべきプロットの地点に配置していただけだった。彼はオビ=ワン・ケノービだった。ダンブルドアだった。酒癖のないヘイミッチ・アバナシーだった。彼は誰でもあり、だからこそ誰でもなかった。そして最悪なのは何か。私はそれをわざとやっていたのだ。文字どおり「メンター アーキタイプ 特徴」と検索し、その検索結果から彼を組み立てていた。

これが罠だ。小説を構想するときに「アーキタイプ」という言葉を使ったことがあるなら、同じ罠に落ちている可能性は十分にある。アーキタイプがまちがっているからではない。アーキタイプは物語づくりにおける最も強力な概念のひとつだ。そうではなく、私たちの多くがアーキタイプを学ぶやり方が、それを下手に使うようにほとんど完璧に設計されているからだ。

チューリッヒから書き手の机までの伝言ゲーム

実際に原典に立ち返ってみて驚いたことがある。「アーキタイプ(元型)」という言葉に現代的な意味を与えた人物、カール・ユングは、キャラクターのことなどまったく話していなかったのだ。

ユングは二十世紀初頭のチューリッヒの精神科医で、ある奇妙なことに繰り返し気づいていた。まったく異なる背景を持つ患者たち、たとえばスイスの銀行家、ドイツの田舎出身の若い女性、アメリカの学者が、夢のなかで不気味なほどよく似たイメージを生み出すのだ。呑み込む母。賢い老人。自分自身の暗い分身。男と女の境界をぼかす人物。それらは学習によって得たイメージではなかった。患者たちが互いの夢日記を読んだわけではない。もっと深いところで何かが起きていた。

ユングの説明は集合的無意識だった。個人の経験の下に横たわる、人類に共通する心の岩盤である。そして彼の枠組みにおいて、アーキタイプとはその岩盤に埋め込まれたパターンだった。キャラクターではない。テンプレートでもない。経験のパターンだ。シャドウは悪役ではない。自分が切り捨ててきた自分の一部と向き合うという、人類に普遍的な経験のことだ。アニマは恋の相手ではない。男性が自分の心のなかの女性的な次元と出会うときに起きることだ。自己(セルフ)は主人公ではない。ほかのすべてを組織する、心の全体性へと向かう衝動のことだ。

さて、ここから伝言ゲームが始まる。ユングがこれらの考えを発表する。ジョーゼフ・キャンベルがユングを読み、その枠組みを使って世界の神話を分析し、1949年に『千の顔をもつ英雄』を生み出す。クリストファー・ボグラーがキャンベルを読み、1985年にそれを七ページのハリウッド向けメモに凝縮する。創作ブログがボグラーを読み、「すべての作家が知っておくべき12のキャラクター・アーキタイプ」と題したインフォグラフィックを作る。そしていま「キャラクター アーキタイプ」と検索すると、悪役は「シャドウ」で相棒は「アライ(味方)」だと教えてくれるまとめ記事にたどり着く。

書き手の机に届くころには、人間の経験を形づくる深層心理のパターンについての豊かな理論が、ただの配役表にまで平たく押しつぶされている。単純化が四回重なり、そのたびにニュアンスがはぎ取られ、最後に残るのは、ユング本人が見てもほとんどそれとわからないキャラクターのテンプレートの一覧だ。

これが重要なのは、押しつぶされた版が悪い助言を生むだけでは済まないからだ。それは特定の種類の悪いキャラクターを生む。構造上の役割は果たすが、内面の生を持たないキャラクターだ。そして一度このパターンが見えるようになると、あらゆるところに見えてくる。

キャンベルが実際に言ったこと(そしてハリウッドが代わりに聞き取ったこと)

キャンベルについては、ここで独立して取り上げる価値がある。彼の仕事は、おそらく現代の物語づくりにおいて最も影響力があり、そして最も誤解されているテキストだからだ。

キャンベルが実際にやったのは比較神話学だった。数十の文化の神話を読み、繰り返し現れる物語の形に気づいた。英雄が日常の世界を離れ、非日常の試練の領域に入り、最大の試練に直面し、変容して故郷に帰る。彼はこれを単一神話(モノミス)と呼び、その段階を整理した。冒険への召命、境界の越境、試練の道、鯨の腹、といった具合に。

誰もが見落としている点がある。キャンベルが記述していたのは、神話がしばしばやることだった。彼は何千年分もの物語を振り返って「おや、ここにパターンがある」と言う人類学者だった。前を向いて「これがあなたのアウトラインです」と言う脚本の先生ではなかった。その違いは、ハリケーンがどう発生するかを説明する気象学者と、ハリケーンのレシピを手渡してくる人との違いに等しい。

ところが1985年、ボグラーがディズニー社内向けのメモを書き、単一神話は突然レシピになった。メンターは、特定の務めを持つキャラクターの類型になった(知恵を授け、そして死ぬ)。境界の守護者もキャラクターの類型になった(門口で英雄を試す)。流動的で互いに重なり合っていたキャンベルの心理的な段階は、パーセンテージの目印つきの硬直したプロットのビートになった。そしてハリウッドは、物語づくりを再現可能な製造工程にしたくてたまらない業界ならではの熱意で、そのすべてを採り入れた。

ジョージ・ルーカスは『スター・ウォーズ』の構成にキャンベルを用いたことで有名だが、彼は正しいやり方をした。伝統から素材を引き出す芸術家の自由さで、その枠組みから借りたのだ。いくつかの段階は飛ばした。別の段階は順序を入れ替えた。キャンベルが記述したことのないものを発明した。けれど、ルーカスに続いた映画作家たちは、ボグラーの『神話の法則』を、ますますイケアの組み立て説明書のように扱うようになった。手順どおりに進め、同梱の部品だけを使えば、箱の写真どおりのものができあがる、というわけだ。その結果が、神話的なビートをすべて押さえているのに、なぜか何も感じさせない二十年分の映画だった。

最も深い皮肉は、J・R・R・トールキンの『指輪物語』が、ほとんどすべての創作指南書で英雄の旅の物語として引用されるのに、当のトールキンはキャンベルの枠組みをはっきり拒んでいたことだ。トールキンは中世文学の研究者だった。北欧のサガ、古英語の詩、フィンランドの叙事詩に依拠していた。彼のアーキタイプは、キャンベルの総合からではなく、一次資料から来ていた。そしてフロドの旅は、単一神話にきれいに沿ってなどまったくいない。彼は境界で超自然の助けを受けない。「女神との遭遇」の瞬間もない。そして彼のクライマックスの行為は失敗だ。指輪を破壊するのではなく、自分のものだと宣言してしまう。世界を救うのは、偶然にもゴクリだ。この物語が機能するのは、テンプレートに従っているからではない。トールキンが神話の下にある心理をあまりに深く理解していたので、キャラクターが紋切り型に感じられることなく神話的に感じられるからだ。

キャンベル自身も、このことを理解していたようだ。あの有名なPBSのインタビューで、彼はビル・モイヤーズに「私は処方しているのではない。記述しているのだ」と語っている。けれど、そのころにはもう誰も耳を貸していなかった。みなビートシートを埋めるのに忙しかったのだ。

アーキタイプ動物園めぐり(率直な解説つき)

アーキタイプはテンプレートではなくパターンだという前置きをたっぷりしたうえで、書き手として最もよく出会うアーキタイプを実際に見て回ろう。ただし、説明するだけにはしない。それが生きているときにどう見えるか、そして剥製にされて壁に飾られているときにどう見えるかを見せたい。

ヒーローは、変容の旅をするキャラクターだ。あるものとして始まり、別のものとして終わり、その二つの姿のあいだの距離が物語になる。すべての主人公がこの意味でのヒーローなわけではない。ジェームズ・ボンド、アティカス・フィンチ、シャーロック・ホームズ。彼らは主人公だが、変容しない。世界のほうが彼らにぶつかって砕ける岩だ。それに対してヒーローは、砕けて、形を変えて立ち直る者だ。

オデュッセウスは研究に値するヒーローだ。彼の変容があまりに華やかさを欠いているからだ。彼はレベルアップしない。はぎ取られていく。十年に及ぶ帰郷の旅の寄港地ごとに、部下たちを死なせた傲慢さと小賢しさがまた一枚はがされていく。ひとり乞食に身をやつしてイタケーに流れ着くころには、彼はトロイアへ出征した征服者の王ではない。より小さく、より悲しく、より賢い誰かだ。そして、その小さくなった自分だけが、わが家を取り戻すにふさわしい。平凡に始まり非凡に終わる、ありがちな「選ばれし者」と比べてみてほしい。オデュッセウスは非凡に始まり、人間として終わる。それはより難しく、より興味深いアークであり、力の増大とクライマックスでの勝利を強調する「ヒーローのアーキタイプ」のテンプレートからは決して生まれないものだ。

カットニス・エヴァディーンが機能するのも同じ理由だ。彼女のヒロイズムは運命や特別さとは関係ない。生き延びようとする本能が、本人の意に反して政治的な象徴にねじ曲げられたものだ。彼女は妹を救うためにゲームに志願する。具体的で個人的な、まったく神話的でない行為だ。そしてシリーズの残りを、ほかの人々が彼女に英雄的な意味を投影するなか、ただ生き延びようとして過ごす。彼女はヒーローになりたいと思ったことのないヒーローであり、その役割への抵抗こそが彼女を本物に感じさせる。

メンターが存在するのは、変容の旅には導き手が必要だからだ。神話では、メンターは超自然の存在であることが多い。オデュッセウスを導くアテナ、ダンテを地獄へ案内するウェルギリウス。現代の小説では、メンターは「助言を授け、予定どおりに死ぬ賢い老人」へと石化してしまった。これは、アーキタイプが最も防腐処理された姿だ。

私が本当に覚えているメンターは、メンターとして下手な者たちだ。ヘイミッチ・アバナシーは、死の闘技場へ向かう十六歳の少女を導くどころか、自分自身すらろくに導けない酔っぱらいだ。彼の助言は矛盾している。支えは当てにならない。彼はカットニスがこれから入っていくシステムにあまりに深く壊されてきたので、その冷笑は残酷さに見える。それがこの状況に対する唯一の正直な反応だと気づくまでは。彼がついにカットニスを助けると腹を決めたとき、それが意味を持つのは、まさに彼が第一幕のあいだずっと、なぜ自分が手を貸す気にならないのかを示し続けてきたからだ。

そしてダンブルドアがいる。彼はおそらく大衆小説で最も魅力的なメンターだ。なぜなら彼は同時に、そしてこれこそが彼を面白くしている部分なのだが、ひとりの子どもに自ら死へ歩いていくことを求める、数十年がかりの計画を進める策略家でもあるからだ。『ハリー・ポッターと死の秘宝』で、ダンブルドアはハリーが死ななければならないことを知っていて、それを受け入れるよう彼を育てていたと明かされる。シリーズのなかのきらめく瞳も、肩に置かれる安心させる手も、温かい祖父のような瞬間も、すべてがその暴露によって遡って複雑になる。彼は、決死の任務に送り出す兵士を鍛えるようにハリーを導いていた。心からの愛情と、まったく容赦のない目的をもって。それはメンターのアーキタイプではない。メンターのアーキタイプを変装のように身にまとった人間だ。そしてそれこそが、読者が何年も議論し続けるたぐいのキャラクターなのだ。

トリックスターは、これだけは譲れないのだが、物語全体のなかで最も一貫して面白いアーキタイプだ。トリックスターは境界を越える者だ。ルールを破る者だ。カテゴリーとカテゴリーの隙間で動き、ほかの者が力を使うところで狡知を使い、その本当の忠誠は本人にしか読み取れない。

トリックスターを魅力的にしているのは、道徳的に収まりがつかないことだ。ヒーローには掟がある。シャドウには恨みがある。トリックスターにはどうにも読み解けない思惑がある。『オセロー』のイアーゴーは、トリックスターをその最も暗い極限まで押し進めた存在だ。動機があまりに薄いので、学者たちは四百年にわたって、なぜ彼があんなことをするのかを解明しようとしてきた。コールリッジはそれを「動機なき悪意」と呼んだ。美しい言い回しだが、正確ではない。イアーゴーには動機がある。ただ、それが不釣り合いなのだ。ささいな恨みが、自らの狡知に悦に入る精神によって、世界を破壊する計略へと膨らまされている。その原因と結果のあいだの落差こそが、彼を恐ろしくしている。

『ゲーム・オブ・スローンズ』の初期シーズンのティリオン・ラニスターは、生き延びる者としてのトリックスターだ。冗談はひとつ残らず盾だ。計略はどれも、自分に与えられなかった肉体的な力の埋め合わせだ。彼はどの部屋にいてもいちばん頭が切れる。そしてこのアーキタイプの悲劇は、力で動く世界から身を守るには、知性だけでは決して足りないということだ。トリックスターは周囲の誰よりも賢くあることで生き延びる。そしてすべてのトリックスターの物語につきまとう問いはこうだ。賢さだけでは足りなくなったとき、何が起きるのか。

シャドウは「悪役」として語られるが、それは海を「濡れているもの」と説明するようなものだ。シャドウとは、ヒーローが自分自身について認められない、あるいは認めようとしないもののことだ。地球に向かってくる小惑星は敵対者だが、シャドウではない。シャドウには鏡の関係が必要だ。ヒーローが見るのを恐れている何かを映し出していなければならない。

ここからが面白い。大衆文化で最も称賛されているシャドウはダース・ベイダーだが、私は実のところ、彼はそこそこの例にすぎないと思っている。たしかに彼はルークの父で、ルークがたどりうる暗い道を体現している。けれどその鏡は遺伝的なものであって、心理的なものではない。ルークが本気でベイダーになりかける危険は一度もない。誘惑は外側にあって、内側にはない。

これを、パトリシア・ハイスミスの小説に登場するトム・リプリーと比べてみよう。リプリーは主人公そのものだ。魅力的で、知的で、美的感覚に優れている。そして人を殺し、その人物になりすます。ハイスミスは彼を視点人物にすることで、読者に殺人者を応援させ、そのうえで、彼が生き延びるかどうかを気にするのをやめられるものならやめてみろと挑んでくる。リプリーは、ぶつかる相手のヒーローを持たないシャドウだ。鏡のない闇であり、彼が映し出しているのは、ページをめくり続ける読者であるあなたなのだ。

あるいは『血と暴力の国』(映画の邦題は『ノーカントリー』)のアントン・シガーを考えてみよう。シガーは従来の意味でのシャドウではない。ヒーローの暗い鏡ではなく、宇宙の暗い鏡だからだ。彼はルウェリン・モスがなりうる姿を表していない。人間の計画や希望や道徳の区分に対する、運命の絶対的な無関心を表している。コイン投げひとつで、誰が生き誰が死ぬかが決まる。人の選択は関係ない。勇気も関係ない。それが最も恐ろしい種類のシャドウだ。悪へと誘惑するシャドウではなく、善と悪という区分そのものが、そもそも何の意味も持っていなかったと暴いてみせるシャドウである。

Plotiarのキャラクター・アーキタイプ・プロファイル文書。エレナ・バスケスのアーキタイプが三幕を通じて、第一幕の衣装を着たメンターから、第二幕の露見したトリックスターを経て、第三幕の正直なメンターへと変化していく様子を、各段階の行動の変化を箇条書きで追っている

誰もひとつだけではない(ここからが面白い)

アーキタイプのガイドが飛ばしてしまう部分がある。正直なところ、人の記憶に残るキャラクターを書くうえで大事なのはそこだけだ。私たちの共通の想像力にずっと住みつくキャラクターは、ひとつのアーキタイプのきれいな見本であることがほとんどない。彼らは衝突だ。矛盾だ。二つか三つのアーキタイプがひとつの体に詰め込まれ、どんなテンプレートにも予測できない摩擦を生んでいる。

ハン・ソロは『スター・ウォーズ』の始まりではトリックスターだ。密輸業者で、傭兵で、その忠誠は支払いの範囲にきっちり限られている。彼が先に撃つのは(そう、彼はいつだって先に撃った)勇敢だからではなく、現実的だからだ。それが三部作を通して、彼はヒーローになっていく。そしてその移行、トリックスターからヒーローへの移行こそが、彼をシリーズで最も愛されるキャラクターにしている。ヒーローとして始まり、移動する距離が短いルークよりも愛されているのだ。デス・スターへの突入でハンがミレニアム・ファルコンで轟音とともに戻ってきてルークの進路を切り開く瞬間が痺れるのは、それが彼のアーキタイプを裏切るからだ。トリックスターは英雄的な犠牲を払わない。ハンは払う。アーキタイプの変化こそがキャラクターの成長なのだ。それを取り除けば、ハン・ソロはかっこいいベストを着たただの男でしかない。

ウォルター・ホワイトは、テレビ史上最も長く持続したアーキタイプの変容であり、ほかに比べられるものはないと思う。彼はヒーローとして始まる。末期の病を抱えた平凡な男が、家族を養うために必死の行動に出る。共感できる。感情移入できる。応援したくなる。最終シーズンには、彼はシャドウそのものになっている。シーズン1で視聴者が声援を送っていたものすべての、暗い映し鏡だ。ヴィンス・ギリガンはこのドラマを「チップス先生をスカーフェイスに変える」話だと説明した。それはまさにアーキタイプの変化、つまりメンター的な人物から怪物への変化だ。

『ブレイキング・バッド』が天才的なのは、その変化が起きる瞬間をどうしても特定できないことだ。ウォルター・ホワイトがヒーローの仮面を外してシャドウの仮面をかぶる場面など存在しない。あるのは、一線をゆっくりと少しずつ越えていくことだけだ。どの一線も、その瞬間には正当に感じられ、振り返ってはじめて境界だったとわかる。メス作りが家族のためではなく自尊心のためになったのはいつか。彼が追い詰められた父親であることをやめ、ハイゼンベルクになったのはいつか。ウォルター自身にもわからない。その曖昧さこそが、テンプレートから設計するのではなく、アーキタイプの変化を有機的に展開させたときに生まれるものだ。

アーキタイプは還元的だと言われたとき、私が持ち出すキャラクターがサーセイ・ラニスターだ。彼女はシャドウだ。シリーズに登場する共感できるキャラクターのほぼ全員の敵対者である。彼女はマザーだ。子どもたちに激しく、破壊的に献身し、それが彼女の最悪の決断のほとんどを引き起こしている。そして見方を少し変えれば、彼女は自分自身の物語のヒーローだ。あらゆる正当な権力を彼女に与えなかった家父長制の世界を、残された唯一の道具、つまり美しさと策略と、ためらいなく何もかもに火を放つ覚悟とで渡っていく女性である。たしかに彼女は怪物だ。けれどジョージ・R・R・マーティンは彼女に十分な内面を与えているので、この怪物がどのようにして作られたのかが正確にわかる。アーキタイプが衝突し、軽蔑と憐れみを同時に覚える誰かを生み出している。それはテンプレートが与えてくれるものではない。アーキタイプを壊せるほど深く理解した書き手のもとで起きることだ。

そしてアーシュラ・K・ル=グウィンがいる。彼女はこの領域を、ほとんどの書き手が触れたこともない水準で理解していた。『影との戦い(ゲド戦記1)』で、若い魔法使いゲドは、無謀に力を誇示した際に、うっかり影の生き物、形のない闇を世界に解き放ってしまう。その生き物は多島海じゅう彼を追いかけ、小説全体は、クライマックスの戦いへ向かって積み上がっていくように見える。けれどクライマックスは戦いではない。統合だ。ゲドは振り返り、影のほうへ走っていき、それとひとつになる。「ゲドは負けもせず、勝ちもしなかった。自らの死の影に自らの名を与え、己を全きものにしたのだ」。ル=グウィンはシャドウのアーキタイプをただ使ったのではない。ユングが実際に意図したとおりに使ったのだ。滅ぼすべき悪役としてではなく、認めるべき自己の一部として。ヒーローがシャドウになること、それこそが勝利なのだ。これをビートシートに収めてみてほしい。

群像劇の登場人物たちのアーキタイプの衝突を図にしたPlotiarのフローチャート。メンターとトリックスターを併せ持つエレナが「導く/欺く」の関係でアナのヒーローとシャドウのアークにつながり、シャドウとトリックスターを併せ持つマーカスのノードは「演技をあばく」、シェイプシフターのダラは「揺らぐ忠誠」を示している

トリックスター問題(あるいは、同じアーキタイプがどこでも違って見える理由)

西洋の定番のアーキタイプの例を越えて読み始めたとき、心底驚いたことがある。同じアーキタイプが、文化によってあまりに違って見えるので、同じパターンだとはほとんど気づけないほどなのだ。

トリックスターを例にとろう。北欧神話のロキは混沌の化身だ。神々を助けることと神々の破滅を画策することのあいだを揺れ動く変身者であり、その曖昧さは最終的に世界の終末へと傾いていく。暗く、危険で、道徳を欠いている。

では、海と大陸をひとつずつ越えてみよう。西アフリカとカリブ海の伝承に登場する蜘蛛のアナンシも、トリックスターだ。けれどアナンシは混沌としていない。戦略的だ。彼は小さく、体も弱い。なにしろ蜘蛛なのだから。そして物語と知恵を使って、権力の序列をひっくり返す。神々や王たちの裏をかくが、そのいたずらはでたらめな攪乱ではない。再分配なのだ。権力を独り占めする者からそれを奪い、権力を与えられなかった者に渡す。アナンシはロキではない。賢さが何のためにあるのかについてのまったく異なる文化的理解を通した、ロビン・フッドなのだ。

さらに、中国の古典『西遊記』の孫悟空がいる。始まりは、天上の官僚機構全体にけんかを売るほど不遜なトリックスターで、五百年ものあいだ山の下に封じ込められ、そののち長い旅を通して、混沌とした反逆を規律ある目的へと変えて贖罪を果たす。彼のトリックスターとしてのエネルギーは消えない。導かれるのだ。これはトリックスターが大人になったら何が起きるかについての物語であり、トリックスターを殺すか、永遠の思春期にとどめておきがちな西洋の神話がめったに語らない物語だ。

これがなぜ書くうえで大切なのか。自作のトリックスターがいつもロキのように、混沌として、道徳を持たず、危険に見えるなら、スペクトル全体が使えるのに一色だけで描いていることになるからだ。トリックスターは戦略的でありうる(アナンシ)。トリックスターは成熟しうる(孫悟空)。トリックスターは同じひとつの行為で創造的でも破壊的でもありうる(多くの北米先住民の伝承に登場するコヨーテは、知恵と派手な失敗の組み合わせによって、文字どおり世界を形づくる)。アーキタイプは深層のパターンだ。それがページの上で実際にどう見えるかを決めるのは、文化的な表現のほうだ。より多くの表現を知っていれば、それだけ多くの選択肢が手に入る。

キャラクターが衣装を着ているかどうかを見分ける方法

私は何年もかけて、いくつかの診断テストを編み出してきた。自分の作品に当てはめると居心地が悪くなる。それこそが、テストが効いている証拠だ。

移植テスト。脇役のひとりを、頭のなかでまったく別の物語に放り込んでみる。それでも同じようにうまく機能するなら、つまり賢い老魔法使いが、台詞を一行も変えずに探偵にも宇宙船の船長にも高校生にも助言できるなら、書いたのはキャラクターではない。機能だ。メンターのアーキタイプを担う本物の人間は、その人の世界、その人の傷、その人ならではの物の見方にあまりに固有なので、移植しようとすれば全面的な書き直しが必要になるはずだ。ヘイミッチ・アバナシーはカットニス以外の誰も導けない。彼の導きは、彼の自己破壊、ゲームでの過去、彼特有の冷笑的な優しさと切り離せないからだ。それが固有性だ。それがキャラクターだ。

描写テスト。名前も外見もアーキタイプのラベルも使わずに、そのキャラクターを説明してみる。「主人公を導いて、それから自分を犠牲にする人」のようなありきたりなものになるなら、本来キャラクター造形がすべき仕事を、アーキタイプが肩代わりしている。今度は、よく描かれたキャラクターで試してみよう。ヘイミッチならこうだ。「二十四年前に、自分の世代の死のゲームで勝ち残った酔っぱらい。自分を有名人にしたシステムを憎み、思いやりをもっぱら皮肉と、自滅的な反抗の行為で示す」。これは人間だ。彼の声が聞こえる。バーで彼が何を注文するかもわかる。

NPCテスト。ビデオゲームのNPC、つまりノンプレイヤーキャラクターは、プレイヤーに奉仕するために存在する。店主は剣を売る。依頼人は使い走りに送り出す。宿屋の主人は説明をまくしたてる。彼らに内面の生はない。持ち場に立って、待っているだけだ。脇役が同じように機能しているなら、つまりメンターは導くために、使者は召命を届けるために、境界の守護者は戸口をふさぐために存在しているなら、書き上がったのはNPCの配役表だ。直し方は理屈では簡単で、実践では難しい。重要なキャラクター全員に、主人公とはまったく関係のない望みを与えることだ。結婚生活が破綻しかけているメンター。いつも悪い知らせを届ける役回りであることを恨んでいる使者。キャラクターが物語上の機能に逆らう欲望を持った瞬間、彼らは呼吸を始める。

予測テスト。アーキタイプ理論を知っている友人にアウトラインを渡し、何が起きるか予測してもらう。「メンターは第二幕で死ぬんでしょ?」と、すべてのビートを言い当てられるなら、アーキタイプは物語に示唆を与える立場を越えて、物語のハンドルを握ってしまっている。アーキタイプは言語における文法のように働くべきだ。何を言うかを指図する台本ではなく、無限の変化を可能にする根底の構造として。

アーキタイプを実際に使う方法(アーキタイプに使われずに)

ここまでさんざん壊してきたので、今度は何かを組み立てよう。私がいまどのようにアーキタイプと付き合っているかを紹介する。アーキタイプを、番号どおりに色を塗るぬり絵のキットではなく、何かを生み出す道具として扱う枠組みだ。

パターンからではなく、人から始める。キャラクターを具体的な細部から組み立てる。その人の過去、矛盾、コーヒーの頼み方、毎朝自分につく嘘。ページの上で呼吸させる。それから一歩下がって問う。このキャラクターは自然とどのアーキタイプに引き寄せられているか。よく作り込まれたキャラクターは、割り当てられたわけでもないのに、ひとつか二つのアーキタイプに重なっていることがほとんどだとわかるはずだ。それが正しい流れの向きだ。キャラクターが先で、アーキタイプはレンズにすぎない。逆、つまりメニューから「メンター」を選び、それを中心にキャラクターを組み立てると、ガンダルフのクローンができあがる。

二つめのアーキタイプを見つける。主要なパターンがわかったら、もっと面白い問いを立てよう。このキャラクターのなかには、ほかにどんなアーキタイプが隠れているか。トリックスターでもあるメンター(ダンブルドア:導くと同時に欺く)。シャドウでもあるヒーロー(ウォルター・ホワイト:自分が立ち向かうはずだったものになっていく)。実はヒーローになりかけているトリックスター(ハン・ソロ:正しいことをせずにはいられない皮肉屋)。二つのアーキタイプの衝突は、自動的に複雑さを生む。本物に感じられるキャラクターを作るための最も簡単な裏技だ。共存するはずのない二つのパターンを選び、共存させればいい。

変化を追う。キャラクターは、最初のページから最後まで同じアーキタイプにとどまるべきではない。自分のキャラクターはどこから始まり、どこで終わるのか。トリックスターとして始まりヒーローとして終わるなら、物語の中盤ではその移行を劇として描く必要がある。賢さが信念に道を譲る、具体的な場面の数々だ。ヒーローとして始まりシャドウとして終わるなら、どの章も堕落をごくわずかずつ進め、読者が手遅れになるまで気づかないようにすべきだ。アーキタイプの変化に名前をつけたり、告知したりする必要はない。けれど、それは感じられるべきだ。

アーキタイプが壊れる場面を書く。私のいちばん好きな練習で、これまでに書いたなかで最高の場面のいくつかを生んでくれた。キャラクターの主要なアーキタイプを取り上げ、その核となる資質を特定する。メンターの核は知恵だ。ヒーローの核は勇気だ。トリックスターの核は狡知だ。そのうえで、キャラクターがその資質に反して行動せざるをえない場面を書く。何が起きているのかまったくわからないと認めなければならないメンター。逃げなければならないヒーロー。あらゆる仮面を捨て、痛々しいほど、居心地が悪いほど誠実にならなければならないトリックスター。こうした場面は、キャラクターが自分のアーキタイプを正しく演じる百の場面よりも、そのキャラクターを決定づける。パターンが崩れたとき、その人が何者なのかを見せてくれるからだ。

ラベルではなく、関係で考える。アーキタイプの本当の力は、個々の類型分けにあるのではない。アーキタイプ的な人物同士のあいだの力学にある。ヒーローとシャドウが同じ部屋にいれば対立が生まれる。ヒーローとメンターなら成長が生まれる。ヒーローとトリックスターなら予測不能さが生まれる。群像を設計するときは、組み合わせで考えよう。ヒーロー抜きで、シャドウとトリックスターが同じ場面にいたら何が起きるか(たいてい、恐ろしくて魅力的なことが起きる)。メンターでありシェイプシフターでもある人物、つまり同じ会話のなかで相手に教えながら、その相手を欺く人物は、どんな姿をしているか。最も面白いエネルギーはアーキタイプが交差するところに宿っていて、個々のキャラクターをどれだけ分析しても、それは見つからない。キャラクターたちを同じ部屋に入れて、何が起きるか見守るしかない。

私のガンダルフの話に戻ろう

結局、私は彼を直した。あのメンター、帽子をかぶったガンダルフだった彼を。

きっかけは、「この場面でメンターは何をすべきか」と問うのをやめ、正直に言って居心地の悪い問いを立て始めたことだった。「誰も彼に賢くあることを求めていないとき、この男は何者なのか」

答えはゆっくりと、そして一気にやってきた。彼は嘘つきだった。数十年がかりの計略と悲劇的な正当化を備えた、ダンブルドア流の壮大な嘘つきではない。小さな、習慣的な嘘つきだ。あまりに長く知恵を演じてきたせいで、自分が本当に信じていることと、深遠に聞こえることとの違いが、もうわからなくなっている男。彼が助言をするのは、答えを持っているからではなく、沈黙が怖いからだった。必要とされることが、彼の依存症だった。彼は頼まれもしないのに人々の危機に顔を出した。助けるためではなく、自分がなくてはならない存在だと感じるために。

そして主人公がついに彼を追い越したとき、つまり彼女が彼の助言を求めなくなったとき、彼の危機は気高い犠牲ではなかった。用済みになることだった。導く相手がひとりもいなくなったメンターが、生涯ずっと他人の旅で埋めてきた空虚とともに、ひとりで座っている。

構造上、彼は依然としてメンターだった。重要な移行期を通して主人公を導いたことに変わりはない。けれど彼はトリックスターでもあった。役割を生きるのではなく演じていた。そして彼自身のシャドウは、演技がなければ自分は何者でもないという恐怖だった。ひとりのキャラクターのなかに三つのアーキタイプがあり、それぞれ違う方向に引っぱり合って摩擦を生んでいた。その摩擦のおかげで、私は彼をしかるべきプロットの地点に配置するだけでなく、彼を書き続けたいと思えるようになった。

サラは新しい版を読んだ。「これでやっと、この人が誰かになったね」と彼女は言った。

それこそが、アーキタイプの存在意義だ。キャラクターが誰なのかを教えてくれるためではない。キャラクターがすでに表している深いパターンを見えるようにしてくれるためだ。そのうえで、そのパターンを複雑にし、ねじり、相容れないパターンを積み重ねて、どんなテンプレートにも予測できなかった何かにキャラクターがなるまで続けるためだ。アーキタイプは物語の語彙であって、文法ではない。単語を知っていても、文が書けるとはかぎらない。文は組み合わせから、驚きから、そしてキャラクターが出発点のパターンの向こうへ手を伸ばし、ついに、還元しようもなく、頑固なまでに、その人自身になる瞬間から生まれる。

主要なパターン、隠れた緊張、そしてそれが原稿全体を通してどう変わっていくか。キャラクターのアーキタイプの層を追う作業は、すべてが一か所にまとまっているとずっとやりやすくなります。Plotiarなら、キャラクターのプロフィール、アーキタイプのメモ、相関図、各章の原稿をひとつのプロジェクトにまとめておけるので、その下にいる人間を見失わずにパターンをたどれます。無料で始められます。

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