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物語のなかに居場所を勝ち取る、架空世界の作り方

Plotiar Team20 分で読める

昨年の六月、私はミズーラ(Missoula)郊外のダイナーで、紙ナプキンに山脈を描いた。第十四章の登場人物が、姉の結婚式に六日遅れて着かなければならないのに、その理由が自分でもわからなかったからだ。

安易な答えなら、ひと通り先に試していた。嵐。脚を痛めた馬。検問所。どれも六日分の重さは持たなかった--せいぜい一日、粘っても二日で、しかも私の主人公は、その程度の足止めなら回り道を見つけてしまう類いの女だった。そこで私はナプキンを一枚引き寄せ、彼女が越えなければならない峠を描き、名前をつけ、小説の開幕より三年前に起きた地滑りをそこに置いた。道幅は荷車一台分にまで狭まり、関所は人手が足りないままになっている。それから、普段の私ならまずやらないことをした。秋の低い光のなかで、崩れかけた九十九折りを一マイル、馬に乗るのではなく引いて歩くのに何時間かかるのかを、実際の時間で割り出したのだ。答えは無様で、遅く、彼女を歓迎しない村で二晩を過ごさなければならない分を足すと、きっかり六日になった。ナプキンに費やしたのは四十分。それが、三週間ものあいだ私が周囲をぐるぐる回っていたアウトラインの穴を塞いだ。

これが、本来あるべきかたちで働いているワールドビルディングだ。速く、具体的で、それなしには決着しない一場面のために奉仕している。たいていのワールドビルディングは、そんなふうには働かない。たいていのワールドビルディングは--私自身の何年かも、ここに含めて言っている--ナプキンの走り書きから表計算へ、フォルダへ、そして書き手以外の誰も読まない私設のウィキへと外へ外へ渦を巻いていき、その大半は実際の本の一ページにも触れないまま終わる。その渦については以前の記事で書いた。三種類の通貨と十三か月の暦を持つ世界を七か月かけて構築し、結局一語も書かなかった小説のためにそれを費やした、あの七か月のことだ。本稿はその記事の対になる一本である。あちらは罠についての話だった。こちらは、その罠を避けるための方法--物語が実際に必要とする、架空世界の特定の部分だけを、原稿から遠ざかるのではなく原稿へ向かって進み続けられる順番で組み立てていく、実践的な手順である。

圧力の原則を、方法として使う

前の記事を読んだ方ならご存じのとおり、根底にある考えはこうだ。ワールドビルディングは、あなたのキャラクターに圧力をかけるために存在するのであって、それ以外の働きは、どれもこれと比べればはるかに重要度が低い。その論証をここで蒸し返すつもりはない。私が見せたいのは、それが実際に手を動かす方法としてどんな形をとるのか、ということだ。被害がすでに出たあと、四万語の設定資料と一行もない草稿を前にして呆然としながら走らせる事後診断としてではなく。

方法を一文で言えばこうなる。世界の要素をひとつ作るたび、作りはじめる前に、それが締めつけることになるキャラクターと、締めつけが起きる場面を名指しする。いずれ、ではない。「本のどこかで」でもない。特定のキャラクター、特定の場面だ。その両方を名指しできないなら、あなたはまだその要素を作る段階にない。どれほどそれについて知りたくてたまらなくても、である。

窮屈に聞こえるだろう。実際に窮屈だし、窮屈であるべきなのだ。人をワールドビルディングの名手にする本能--好奇心、システム思考、その土地がどこまで掘っても破綻しない仕組みで動いていると知りたい飢え--は、放っておけば、本の付いていない世界をあなたに作らせてしまう本能とまったく同じものである。この方法は、好奇心を減らせとは言わない。あなたのその物語が実際に触れる部分に好奇心を注ぎ、残りは意図的に、罪悪感なしに先送りにしろと言っているだけだ。いつか別の一冊がそれを必要とするまで、あるいは、私のナプキンや死んだ神の暦と一緒に、引き出しの中に留まりつづけるまで。

氷山方式と、どこまで潜るべきか

氷山の比喩は、ワールドビルダーなら誰でも耳にしたことがあるはずだ。たいていはヘミングウェイ(Hemingway)の省略の理論から、いくぶん大ざっぱに借りてこられたもの--対象を隅々まで知っている書き手は書かずに済ませることができ、それでも読者はその存在を感じ取る、氷山の九割が水面下にあってなお本当の質量が伝わってくるように、という考えだ。二次世界でこれをやってのけた書き手として、もっとも頻繁に名前が挙がるのはジーン・ウルフ(Gene Wolfe)である。The Book of the New Sunで彼は、実在するがきわめて珍しい古語の英単語--fuligin、chatelaine、peltast--を架空の事物に当て、立ち止まって定義することをせず、意味の組み立ては文脈と語りの確信に委ねてしまう。この世界が底なしに感じられるのは、文章が、説明しないことについて一度も詫びないからだ。

この比喩に潜む罠は、書き手が「九割は水面下」と聞いて、その九割を作らなければならないと結論してしまうところにある。作る必要はない。必要なのは、ページに載る一割が、残りが存在するかのように振る舞うことであって、これは分量の問題ではなく、一貫性と含みの問題である。三章あとで正しく再登場する地名は、歴史を含意する。誰も説明しない戦争に登場人物がついでのように触れれば、それは奥行きを含意する。どちらも、その戦争の原因や死者数や講和条約を、別のファイルに実際に書き出しておくことを要求しない。私が使う試金石はこうだ。この事実には、どこかのファイルのなかに答えが要るのか。それとも、答えがあるように感じられさえすればいいのか。氷山の大半は答えのないままで構わない。小説は百科事典ではないし、誰も答え合わせをしにこないからだ。

例外は、あなたのプロットが実際にその上に立つことになるものすべてだ。その戦争の結末が、第十四章で誰があの峠に権限を持つのかを決めているのなら、答えは必要になる。登場人物の命がそこに懸かっているし、そこにある食い違いは、いずれプロットホールとして表に出てくるからだ。この規律のすべては、たったひとつの区別に集約される。ページに触れる一割の下には本物の答えを敷き、それより下はすべて、噂のまま、手触りのまま、垣間見えただけで確認されない輪郭のままにしておくこと。

まさにこの理由から、私は二つのリストを別々に管理するようになった。その分離だけで、何週間も節約できている。ひとつは「答えたもの」--場面が必要としたから実際に詰めた事実で、あとから自分の考えの筋道をたどれるよう、それぞれの隣に章番号を書き添えてある。もうひとつは「匂わせたもの」--戦争、死んだ王、国境紛争といった、文章のなかで身振りだけしておいて、まだどの場面も解決を求めてこないので意図的に未解決のまま置いてある事実だ。二つ目のリストは、やることリストではない。許可のリストである。どうせまたそのうちのひとつに答えを出しにいきたくなるので、そのときこれを眺めて、この引力は必要ではなく好奇心なのだ、原稿のほうが待っているのだ、と思い出すために存在している。

物理的な世界--プロットを決めるのは地理だ

地理は、労力あたりの見返りがもっとも大きいワールドビルディングでありながら、魔法体系や政治地図に比べて、多くの書き手が投資を怠る層でもある。退屈な部分に見えるからだ。退屈ではない。因果そのものだ。山がどこに座っているかが、誰が誰のもとへ、どれだけの速さでたどり着けるかを決める。川がどこで曲がるかが、交易でどの町が富み、どの町が貧しくなったかを決める。収穫物が腐るまでにどれだけの距離を運ばれなければならないかが、飢饉が三週間先にあるのか三年先にあるのかを決める。地理は、ほとんど事故のようにプロットの論理を生み出してしまう唯一の層である。距離と欠乏は、こちらが意図しようとしまいと、対立を生む機関だからだ。

誰が遅れて到着するかを決めるのは、土地である。

私はいま、海岸線より先に距離を描く。そしてそれは、ほとんどすべてを組み立てる順番を変えてしまった。美しい海岸線から始まる地図は、装飾を誘う--見栄えがいいからここに島をひとつ、紙面が寂しく感じられたからそこにもうひとつ山脈を。プロットが実際に訪れる数か所のあいだの移動日数の表から始まる地図は、プロットを誘う。首都から国境の駐屯地まで、徒歩で、冬に、荷車が一行の足を引っぱる状態で、何日かかるのか。その数字さえ存在すれば、海岸線は午後のうちにその周りへ描いてしまえる。もはやそれは、物語がすでに依存している事実と矛盾しなければよいだけだからだ。先に発明しておいて、あとからプロットとつじつまを合わせる--こちらのほうがよくある順番であり、改稿でもっとも多くの矛盾を生む順番でもある。

フランク・ハーバート(Frank Herbert)は、生態学の教科書を書こうとしていたわけではない。一九五〇年代の初め、雑誌の仕事で彼はオレゴン州フローレンス(Florence, Oregon)へ送られ、移動する砂丘が海岸道路を呑み込むのを止めるために欧州産の砂草を使う政府の事業を取材した。書くはずだった記事は、彼が売り込んだ形のままでは日の目を見なかった。それでも取材は十年にわたって彼のなかに残り、やがてDuneの種になった。自分の汗と呼気の水分を回収するスティルスーツから、フレメン(Fremen)の砂虫を駆る文化、たったひとつの貴重な資源が銀河の政治を左右する経済に至るまで、文明のすべてがたったひとつの物理的事実の下流にある惑星だ--水が足りない、という事実の。その単一の欠乏を、システムが実際にどう機能するのかに向けたジャーナリストの忍耐で押し通すことで、私が思いつくどんな架空の魔法体系よりも多くのプロットが、文化が、人物の心理が生まれてくる。ハーバートは砂漠魔法の七つの流派を作らなかった。容赦のない物理的制約をひとつ作り、その帰結を玉座の間まで追いかけたのだ。

このてこを使うのに、惑星ひとつ分の生態学は要らない。必要なのは、あなたのその物語にとって土地が何を困難にするのかを知ることだけだ。ここで私が思い浮かべるのは、奇妙に思われるかもしれないが、ノンフィクションの書き手ジョン・マクフィー(John McPhee)である。小説家ではまるでないが、地質が人間の計画に対して実際に何をするのかを記録させれば、存命の書き手のなかで彼の右に出る者はいない。Basin and RangeAnnals of the Former Worldといった本で、マクフィーは、断層線や氾濫原が、その上に町を建てた人々の運命をどれほど静かに書き換えてしまうかに何百ページも費やす。そしてその教訓は、そのままフィクションに移せる。土地が何を許さないのかを決めれば、プロットは勝手に生まれはじめる。唯一の道が毎春氾濫するせいで補給の届かない攻囲戦。三年前に峠が崩れ、誰も直していないせいで六日遅れる結婚式。あなたの物語が必要とする摩擦を生む地理を描き、そうでない地理は飛ばすこと。

文化--人が圧力の下で信じるもの

文化は、駆け出しのワールドビルダーが真っ先に発明へ走る領域だ--でっち上げの宗教、でっち上げの祝祭暦、でっち上げの敬称体系。だがその前に、それらすべてを一貫させる問いが立てられていない。この信念を生んだ物質的条件は何か、という問いである。よく作られた世界では、慣習が恣意的であることはめったにない。たいていそれは、その文化が何世代も前に解決した、あるいは解決に失敗した問題の化石記録であり、理由を覚えている者がいなくなってなお演じ続けられているものだ。

アーシュラ・K・ル=グウィン(Ursula K. Le Guin)は、このジャンルの誰よりも厳密にこの問題に取り組んだ。そしてそれは偶然ではない。彼女は人類学者の父アルフレッド・クローバー(Alfred Kroeber)と、ヤヒ族最後の生存者イシ(Ishi)について書いた母シオドーラ・クローバー(Theodora Kroeber)のもとで、文化が舞台装置として発明されるのではなく、生きた体系として研究される家に育った。それは作品に出ている。Always Coming Homeは、小説というより思弁的な民族誌に近い形で書かれている--ケシュと呼ばれる人々の歌、レシピ、フィールドノートが、人類学者が実在の文化の資料を提示するのとまったく同じやり方で並べられているのだ。そしてThe Left Hand of Darknessにおいて、ゲセン人の流動的な両性具有の生物学は、衣装のディテールではない。彼らの社会構造の全体、タブー、政治、恥の概念のすべてが、そのたったひとつの生物学的事実から導かれている。慣習とは実のところ何のためにあるのかを問うよう育てられた者の真剣さで、押し通されているのだ。

これを自分の草稿で実践するとなると、体系というより習慣になる。慣習をひとつ発明するたびに、それがもともと解決していた物質的な問題を一文で書き出す。そして次に、その慣習の死んだ本来の目的と、いまも生きて働いている強制力とのあいだに挟まれているのは自分のどのキャラクターかを問う。かつて飢饉を防いでいたのに、いまでは腐敗した評議会を潤しているだけの収穫税は、設定資料ではない。それは、習慣のままそれを払い続ける小作人と、なぜなのかと問いはじめた娘にかかる圧力である。その隙間--慣習が存在する理由と、人々がいまなおそれに従う理由とのあいだの隙間--は、挨拶や祝日のために発明された語彙をどれだけ積み上げるよりも、劇として価値がある。

私はこれを、弔いの慣習という些細なものにも使う。あの峠と同じ原稿に、家で人が死ぬと扉を白く塗る村があった。ある火曜の午後、雰囲気づくりのためだけに思いついたディテールだ。それは何か月ものあいだ、何もせずに手触りとしてそこに座っていた。私が物質的な問いを立て、白い塗料が高価で、その土地では手に入りにくい場合にしかこの慣習は成り立たないと気づくまでは。つまり、貧しい家が扉を白く塗るということは、正しく弔うためにありもしない金を使ったと、公然と告げていることになる。そのたったひとつの物質的事実が、装飾的なディテールを一場面に変えた。主人公の母親が扉を塗ることを拒み、その拒絶が何を意味するのかを、台詞が一語も説明しないうちに通り全体が知っている、という場面に。

政治--誰がてこを握り、なぜ握っているのか

政治のワールドビルディングは、はっきりそれとわかる特有の壊れ方をする。図表だ。四つの派閥、名前のついた十二人の陰謀家、九世代さかのぼる継承順位。そのどれもが、読者が出会ったことのある人間につながっていない。私はその図表を作ったことがある。死んだ神の暦のあの小説のために作り、十二人の陰謀家のうち九人は一度もページに現れなかった。あの図表は政治ではなかった。王冠をかぶった組織図だった。

ここでもう一度ル=グウィンを引くのは、彼女がこの問題を鮮やかに解いているからだ。The DispossessedにはAn Ambiguous Utopiaという副題がついており、その政治--衛星アナレスの無政府主義社会と、私有と資本主義のウラスとの対置--は、一度も背景に収まらない。それは一人の物理学者シェヴェック(Shevek)の内側に座っている。一方の世界の市民であり、もう一方では訪問者であり、その双方の矛盾によって、具体的に、個人として締めつけられる男だ。押し返す身体を持っているから、この政治は読み取れる。N・K・ジェミシン(N.K. Jemisin)のBroken Earth三部作は、同じことをより暴力的にやってのける。オロジェンを統治するカースト制--その地質学的な力は文明を救いうるのに、法的には所有物であり、「守護者」に訓練され、なかには都市が地震で壊れないよう、節点の維持装置として文字どおり大地に配線される者もいる--は、解説の段落で説明されたりしない。それはたった一枚の像として到来する。管につながれ、都市の下の箱に置き去りにされた子どもの像だ。そしてその一枚が、どんな図表よりも効率よく、政治構造の全体を告発する。フィクション専業になる前、何年もカウンセリング心理士として働いていたジェミシンは、臨床家が気づくやり方で構造的な残酷さを組み立てる。具体的で、身体を伴い、決して抽象にならない。

だからあなた自身の政治のワールドビルディングにも、この記事のほかのどこでも同じ規則が当てはまる。図表を描く前に、身体を見つけること。この法律、この継承規則、この通商禁止によって押し潰されるのは、具体的に誰なのか。その法律は、その一人に対して何をするのかを説明できるだけの深さまでしか作らない。残りの図表--ほかの十一人の陰謀家、六世代分の小王たち--は、そもそも存在する必要があるのなら、キャラクターがついでに口にする噂のままで構わない。

魔法か技術か--体系はひとつだけ、ただし限界まで積み込む

魔法と技術は、違う服を着た同じワールドビルディングの問題であり、どちらにも当てはまる規則は政治のそれと同一だ。あらゆる能力には代償が必要で、その代償は特定のキャラクターが、特定の場面で払わなければならない。そうでなければそれは体系ではなく、願望のリストである。ハードマジックとソフトマジック、そしてブランドン・サンダースン(Brandon Sanderson)やジェミシンのような書き手がその軸のどこに位置するのかについては別の場所で長く書いたので、ここでは繰り返さない。付け加えたいのは方程式の技術側だ。書き手は、技術を制限するという同じくらい強力な一手よりも、はるかに頻繁に魔法体系へ手を伸ばすからである。

ハーバートのDuneは、ここでも教えるところが多い。Dune宇宙の全体を通じてもっとも重大な帰結をもたらしたワールドビルディングは、スパイスでも砂虫でもない。Butlerian Jihad(バトラーの聖戦)、すなわち小説の開幕から数千年前に戦われ、あらゆる「考える機械」を非合法化した聖戦である。設定からコンピュータを取り除いたことが、Mentats(メンタート)--幼少期から機械のように計算をこなすよう訓練され、その代償として奇妙に平板な人間性を負う人々--と、Guild Navigators(ギルドの航宙士)--機械の助けを借りずに空間を折り畳むため、スパイス漬けの食生活で肉体を変異させる者たち--の存在を強いている。ひとつの制限が、SFでもっとも記憶に残る人物類型を二つ生み出した。しかもそれは、新しい道具をひとつ足すよりもはるかに効率よく成し遂げられている。欠如こそがワールドビルディングなのだ。あなたの世界の人々にできないことは、しばしばできることよりも大きな荷重を支えている。

スザンナ・クラーク(Susanna Clarke)は、Jonathan Strange & Mr Norrellに同じ種類の欠如を組み込んでいる。イングランドの魔法は偶然に消えたのではなく、静かに絶えてしまい、あとには「理論魔術師」という職業がまるごと残された。誰ひとり実践できない技芸を研究し、脚注をつける人々である。だからこそ、本物の魔法を使える二人の男の登場が、魔法の不在を前提に一世紀かけて自らを組織してきた諸制度と、政治と、友情を根こそぎ引っくり返す。この稀少性は、彼女の世界についての付随的な事実ではない。それが前提のすべてであり、あらゆる人物の野心も、対抗心も、恐れも、本物の力が突然どれほど稀で、どれほど脅威になったかを基準に較正されている。

どちらの方向に組み立てるにせよ、試金石は政治のときに示したものと同じだ。あなたの魔法体系なり技術なりを取り上げ、規則のひとつひとつについて問う。これの代償を、具体的に誰が、いつ払うのか。代償が抽象的な炎の魔術師--「魔法は危険だ」--は、ワールドビルディングの図解である。代償を払って十五年後、愛する人に手を取られるとひるんでしまう炎の魔術師は、キャラクターだ。彼女が払った代償は、温かさを感じる能力だったからである。後者へ向けて組み立て、目の前のそのキャラクターに対して具体的で身体を伴う代償を生み出すだけの規則が揃ったら、そこで手を止めること。

言語--もっとも小さなワールドビルディングで、もっとも大きな見返り

トールキン(Tolkien)は、文法と音韻論と何世紀分もの内的歴史を備えた完全な言語を二つ作った。言語のほうが本当の企てであり、小説はそれらに住む場所を与えるために建てられたからだ。これはほとんど再現不可能な条件の組み合わせであり、たいていのワールドビルディング指南が言葉を濁すところを、私ははっきり言っておきたい。あなたはまず間違いなくこれをやる必要がないし、やろうとすることは、六か月かけて原稿を一ページも生まないための、もっとも効率のよい方法のひとつである。

代わりに必要なのは、短く、意図的に不完全な語彙集だ--二十から四十ほどの造語で、そのひとつひとつが実際に使われる場面に結びついている。階級を示す呼びかけの形。ある職業に固有の罵り言葉。ページの上で説明することは一度もなくても、あなた自身は語源を知っている地名。知っていれば、二作目でうっかり自分と矛盾せずに済むからだ。テッド・チャン(Ted Chiang)は、たった一篇の中編で、たいていのエピック・ファンタジーが千ページの文法でやること以上を言語でやってのける。「Story of Your Life」において、ヘプタポッドの書き言葉は非線形だ--一文がまるごと、語の連なりではなく同時的なひとつの形として存在する--そしてそれを読めるようになることが、言語学者である主人公の時間の経験そのものを変えてしまう。SFでもっとも多くの賞を受けた作家のひとりになる前、何年もソフトウェアの文書を書くテクニカルライターとして過ごしたチャンは、用語集ではなく、ひとつの言語的な着想から物語の情緒的な建築の全体を組み立てている。用語集は要らない。要るのは、その言語が何のためにあるのかという着想のほうだ。

この仕事の、職業としての実際の天井がどこにあるのかは知っておく価値がある。自分の水準を正直に較正できるからだ。A Song of Ice and Fireのテレビ版のためにDothrakiとValyrianを構築するべく雇われた言語学者デイヴィッド・J・ピーターソン(David J. Peterson)は、動詞の活用も格体系も数千の語根も備えた、実際に運用できる文法を、HBOの予算のもと、何か月もの専従の、報酬を伴う専門労働として作り上げた--そして、それを正しくやる方法についてThe Art of Language Inventionという一冊まで書いている。完全な人工言語構築が、時間と専門性の面で実際にいくらかかるのか。それがその答えだ。あなたはそれと張り合うことを求められてはいない。求められているのは、読者が半分だけ覚えていて、結局一度も調べない四十の単語を発明することである。調べる必要が、一度もなかったからだ。

先延ばしの罠に、はっきり名前をつける

この心理については以前の記事で長く扱った--なぜワールドビルディングは、執筆のリスクをほとんど負わないまま執筆のように感じられるのか、そしてなぜ、実りあるワールドビルディングの一日のあとに感じる満足は、安心よりも不安の材料であるべきなのか。その論証をここで走らせ直すつもりはない。ただ、その兆候のもっとも手早い版は渡しておきたい。渦が三週間の深さになる前に、作業の途中で三十秒あれば確かめられるものが必要だからだ。

自問してほしい。いま作ったものを、この場で原稿を開いて、次の五百語のなかで使えるか。正直な答えが「いいえ」なら--いま作ったものが面白くはあっても、明日書く場面には触れないのなら--あなたはおそらく何かを避けていた。その何かは、ほぼ確実にワールドビルディングではない。場面のほうだ。

あなたが避けているものは、いつだって場面である。

ワールドビルディングが安全なのは、いつでももっと徹底できるからだ。場面のほうは、実際に書かれなければならない。最初は下手くそに、あなたの手で、今日。そして「もっと徹底する」のどんな版も、腰を下ろして実際に書くことの代わりにはならない。

いつ作るのをやめて、書きはじめるか

多くの書き手が探している停止点は、存在しない。架空の世界が完成する瞬間などなく、その瞬間を待つことこそ、小説が資料フォルダのなかで死んでいく道筋である。実際に存在する停止点は、もっと小さく、はるかに役に立つ。アウトライン上の次の五場面それぞれについて、その五場面が実際に問うてくることになるワールドビルディングの問いに、すべて答えられるようになったとき、あなたは十分に作り終えている。

このチェックリストは、次の調べもののセッションの前ではなく、次の執筆のセッションの前に走らせること。

  1. アウトラインから、次の五つの場面を順番どおりに書き出す。
  2. それぞれについて、その場面が依存しているワールドビルディングの事実をひとつだけ書き留める--峠、慣習、法律、魔法の代償--その事実だけを、である。
  3. その五つの事実を作る。ほかは作らない。六つ目がどれほど誘ってきても、である。
  4. 五つの場面を書く。
  5. そこまで来たら、次の五つで同じことを繰り返す。

これは、世界を未完成のまま置き去りにしているように感じられるだろう。実際そうだ。世界はつねに未完成である。現実の国の歴史も地理も法も、任意のどの瞬間においても未完成であるのとまったく同じように。読者はあなたの舞台設定を、完成した一個の物として経験するわけではない。彼らはそれを、あなたのキャラクターがそこを進んでいく速度とぴったり同じ速度で、一場面ずつ経験する。つまり五場面の規則は、妥協ではない。作る速度を、読者が実際にその成果を消費していく速度に合わせているだけのことだ。

このチェックリストをきちんと走らせたのは、あの峠の小説が最初だった。ナプキンから四章ほど進んだころのことだ。私の手元には、答えたくてうずうずしているワールドビルディングの問いが九つあった--峠の地質学的な来歴、関所の創設、山脈の反対側にあるはずだとかなり確信していたが、まだ必要になっていない第二の峠。その九つすべてに五場面テストをかけた。生き残ったのは二つ。峠そのもの--次の場面がそこを越えるからだ--と、関守の名前--あるキャラクターがそれを声に出して言おうとしていたからだ。残りの七つは「あとで、もし重要になったら」という題の一行リストに入り、その後四百ページのあいだ、どれひとつとして重要にならなかった。私はそれを失敗だとは思っていない。私が実際に書いていたその一冊にとって、正しい分量の世界だったのだと思っている。

書きながら作る--書く前だけではなく

七か月の失敗のあと、自分の進め方に加えたもっとも深い変更は、ワールドビルディングを執筆の前に置かれる一段階として扱うのをやめ、執筆と並走する習慣として扱いはじめたことだった。私はもう、第一章を始める前に一週間「世界を作る」つもりで机に向かうことはない。第一章を書くつもりで机に向かい、第一章が、世界のまだ答えていない問いを投げてきたら--収穫の月にこの村はどんな匂いがするのか、あの峠の通行料を実際に取り立てているのは誰なのか--その場で答えを出し、あとで自分と矛盾しないよう一か所に書き留め、そのまま書きかけの一文へ戻る。構築は、執筆が開けた隙間のなかで起きるのであって、別の、より早い、より安全な部屋のなかで起きるのではない。

これに必要なインフラはひとつだけだ。その場で出した答えを、生まれるそばから記録していける、検索可能な単一の走り書きファイルである。第十四章で関守の名前を発明したら、第三十一章でそれをもう一度見つけられるように。こっそり改名して誰も気づかないことを祈る、という事態を避けるために。地図、家系図、政治的決断と結果のあいだの因果を追うフローチャートといった、プロジェクトのほかの中身から参照できる走り書きの設定ファイルは、あらかじめ書き上げたバイブルよりも価値がある。それはあなたの実際の原稿が育つのとぴったり同じ速度で育ち、それより速くは育たないからだ。始める前にこの仕組みを整える手順をもう少し詳しく知りたければ、ワールドビルディングのガイドがその道筋をたどっているし、ワールドビルディング・バイブルのテンプレートは、百科事典的なやり方ではなく、まさにこのジャストインタイム式に見合った大きさの構造を用意している。

以前の記事で立てた論--ワールドビルディングの仕事はひとつであり、それを忘れると何が起きるのか--の、実践的で順番に沿った版が読みたければ、こちらにある。二本は合わせて読まれることを意図している。あちらはなぜやめるべきかを語り、こちらは、そもそもやめる必要が出ないように、どう作るかを語っている。

ミズーラ郊外のダイナーのナプキンは、いまも机の引き出しに入っている。あの峠をきちんと描き直したことはない。完全な地質学的来歴を与えたこともなければ、どんな鉱物がそこを走っていたのか、小説の開幕の四世紀前に誰がそれをめぐって戦ったのかを詰めたこともない。必要がなかった。私に必要だったのは六日と、地滑りと、主人公を歓迎しない村であり、ナプキンはまさにそれだけを、それ以上のものは何ひとつ与えずに差し出した。本は書き上がった。あの峠は一場面に短く現れ、自分の仕事をする。そして私は、それについてほかの何かを知る必要を、ただの一度も感じたことがない。

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